世渡りも上手い宮本武蔵が瞑想 備後護国神社 福山市
宮本武蔵ですが1615年の大坂の陣の時ですが
福山藩主の水野勝成の客将として参加しております。
この時、勝成はまだ三河刈谷藩主だったのですが
武蔵は勝成に1608年頃には既に仕えていたようです。
勝成ですが家康の実母の於大の方が水野家出身なので
武蔵も自分の武勇もありましたがそこも計算していたかも。
もちろん勝成も猛将として有名したのでちょうど良かったのでしょう。
勝成ですが大坂の陣でも大将なのに大暴れ。
武蔵もそれに従って活躍したと思われます。
大坂方の敗戦が決定的になった道明寺の戦いで
大坂方の後藤又兵衛と薄田兼相を討ったのは
勝成の部隊でした。
もっとも勝成が大将なのに最前線で暴れすぎて家康は
かなり呆れていたようですが。。。
さて武蔵の腰掛けた瞑想石は正面ではなく道路側から
入った方が行きやすかったです。
福山市の中心なのですが閑静です。
登ると
ありました。
武蔵ですが剣豪のイメ-ジとは裏腹になかなか
世渡り上手で水野家をその後去りまして
姫路藩の本多忠刻に仕えます。
忠刻ですが本多忠勝の孫で正室は徳川秀忠の
長女の千姫です(豊臣秀頼未亡人です)。
ここで武術指導だけでなく明石市の街の
設計なども担当したそうです。
武蔵ですが結婚せず子供はすべて養子でした。
最初の養子には水野家の家臣の子もいたので
水野家との縁も深かったのでしょう。
安産祈願像もございます。
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