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2024年5月19日 (日)

巨大な石垣と豊臣秀頼の子 国松生存説 日出城

大分県日出町(ひじまち)に行ってきました。

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2022年訪問です。

日出城ですが立派な石垣を持ち別府湾を望みます。

城下ですが町に溶け込んでおります。

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初代藩主は木下延俊です。

父親は足守藩主木下家定です。

家定は豊臣秀吉の正室のねねの兄でして

延俊はねねの甥になります。

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延俊ですが正室が細川藤孝の娘でした。

そのため藤孝の後継者の細川忠興と仲がよかったようです。

延俊ですが藤孝に良く従っております。

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延俊ですが忠興の後継者の忠利とも親しく

忠利の正室が将軍徳川秀忠の兄の松平信康の娘だったのもあって

豊臣系ですが幕府からも評価されていたようです。

大阪の陣でも幕府軍として出陣し

島原の乱でも兵を派遣しています。

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日出城ですが立派な石垣ですがこれは

忠興の支援と配下の穴太衆によって作られています。

延俊ですが江戸城の石垣も普請しています。

延俊ですが亡くなる前に後継者は実質長男の俊治にし

弟の四男の延由に3万石のうち1万石を豊後立石に

残すように重臣に遺言します。

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しかし重臣は3万石の1万石を渡すと日出藩が困ると判断し

5千石を豊後立石の延由に渡します。

しかし後にこの重臣は自害しました。

延由の正体を知って延俊の遺言を守らなかった事を

後悔したためと言われています。

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延由ですが豊臣秀頼の子の国松との説があります。

この破格の待遇はそのためと言われています。

延治と延由ですが兄弟ですが年齢差は12日違いしか無く

延由の位牌には豊臣の文字があるとの事です。

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これが事実だと豊臣は滅んでいなかったとの事であります。

なかなかの浪漫であります。

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人柱伝説が日出城にはありますが事実だったようです。

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老武者の木棺と遺骨や武具が発見されております。

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日出城には今は小学校が建っております。

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明治時代の大作曲の滝廉太郎ですが父親は

日出藩士であります。

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別府湾を望みます。

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秀頼ももしかしたら一緒に落ち延びていたかもしれませんね。

だから延俊も延由(国松)を無碍には出来なかったとか。

延俊ですがねねに可愛がられていたので

秀吉とは血縁ではなかったとは言え

放っておけなかったのかもしれません。

 

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