鳴海城 山口教継 隠れた名将かも
鳴海城ですが信長の勢力の熱田神宮と目との鼻の先です。
名鉄電車だと10分くらいでしょうか。
元々は信長の父親の信秀の重臣の山口教継が
治めていましたが山口教継は信長の代になると
義元に付きます。
義元と信長の戦いが始まると
鳴海城を楽に手に入れていた義元は
義元の重臣の岡部元信の大軍を鳴海城に配置し
まずは信長方の大高城の攻略を目指します。
(大高城は鳴海城の西南2キロ程度)
鳴海城の岡部元信と三河からの松平元康(徳川家康)の部隊で
大高城も今川方に落とされると信長は
絶体絶命に陥ります。
大高城と桶狭間の記事は追ってご紹介します。
山口教継の事前攻略で信長はピンチに陥ります。
しかし義元は沓掛城から鳴海城か大高城に向かう途中に
酒盛りして油断してし休憩していたところを
信長の奇襲で討たれてしまいます。
義元が討たれたものの鳴海城の岡部元信と
大高城を落とした松平元康(徳川家康)の部隊が
残っていたので弔い合戦に挑む手もあったのでしょうが
今川はそれを選ばず手に入れた鳴海城と大高城を
手放し義元の首を引き換えに駿河に撤退しました。
信長はこうして危機を脱しただけでなく天下に
その名を轟かします。
義元を継いだ今川氏真ですがその後
駿河に戻ると山口教継親子を切腹させています。
信長が氏真を調略し山口教継親子を切腹させた
ことになっていますが
想像ですが鳴海城大高城から簡単に撤退した
氏真に抗議した山口教継らを殺害し
敗戦の処理をさせたのかもしれません。
山口教継ですが歴史的には無名ですが
優秀な武将だったのかと思われます。
氏真ですが信長に敗れ義元の弔い合戦もしなかったので
今川家臣の離脱や同盟を組んでた武田信玄の
裏切りにあい結果的に戦国大名としては
滅んでしまっています。
氏真ですが武将として評価が低いのは
仕方がないのかもしれません。
鳴海城ですが高台のお城で今は公園です。
戦後は信長の重臣の佐久間信盛が入ったりしますが
早い段階で廃城になっています。
なぜか富士山の遊具が。。
名鉄電車が快走中。
周辺は住宅街です。
信長がこの窮地を覆したのはやはりすごいなと
思ったり。
↓よろしければポチッとお願いします!
« 英一蝶 300年記念展 反骨の画家 | トップページ | 改革とは難しいですが »
「歴史ネタ」カテゴリの記事
- 逃げ上手の若君 第18巻 (2024.12.08)
- 気象神社 日本唯一 しかも強運 (2024.12.01)
最近のコメント