再訪問 桶狭間古戦場 情報が制したのかも
今川義元がここで戦死したと言われています。
実は今回車で来たので今川義元の足取りを推測して
沓掛城から大高城に向かってみた次第です。
そして桶狭間古戦場公園に向かいます。
この辺は少しアップダウンのある地形で
車だと道路の都合で迂回しますので10分弱かかりますが
最短距離ならそれほどかからないのではと。
桶狭間古戦場公園に到着です。
こちらは今回初めて訪問です。
名古屋市の近郊のためほぼ宅地化されており
戦場だった雰囲気はまったくありません。
桶狭間の戦いですが非常に有名な戦いですが
詳細は謎が多い戦いです。
信長が圧倒的不利な状況をひっくり返したのは
間違いないのですが勝利を導いた勝因は
情報だったのかと思います。
沓掛城から大高城、鳴海城の間はそれほど
距離はないのですが丘陵地帯で見通しが
利かなかったのではないかと。
また信長は最初から義元の首のみを狙い
動きを逐一監視させていたのかと。
信長は鳴海城の岡部元信と大高城の松平元康は
スル-しております。
信長の直属の部隊は少数でしたが精強で
義元は大軍でしたが寄せ集めの兵だったのかもしれません。
沓掛城から桶狭間古戦場の最寄り駅の
中京競馬場駅の東隣の名鉄前後駅に向かうと
戦人塚と言う塚がありますが今
川方の戦死者を供養した塚との事です。
藤田医科大学の近くにも田楽ヶ窪と言う地名があり
ここが義元の最後の地の説もあるようです。
桶狭間の戦いですが田楽狭間の戦いの別称もあります。
桶狭間の戦いの戦力ですが信長は2千。
義元は諸説あり2万5千のうち義元直属が5千から
6千と言われていますが今川の死者が3千以上が
事実なら壊滅的な打撃を受けた事になります。
事実、義元だけでなく義元の重臣クラスも
多数討たれてしまい義元を継いだ氏真時代に
今川家は大名として終わっております。
義元ですが沓掛城を出発し大高城に向かう途中に
信長に遭遇し倍以上の戦力があったので余裕のはずが
味方が崩れて慌てて沓掛城に戻ろうとしたところを
信長に追われて力尽きたのではないかと。
信長の直属の親衛隊とも言える
赤母衣衆と黒母衣衆ですが有名なメンバ-では
前田利家、蜂谷頼隆、川尻秀隆、金森長近らが
所属で名前だけでも強そうでありますが
倍以上の敵を撃破して追い回すなどやはり
信長の捨て身もあったのかもしれません。
桶狭間古戦場公園の信長像と義元像。
桶狭間の戦いの最大の功労者と言われ
戦後に沓掛城主となりと
謎が多い簗田政綱を次週ご紹介します。
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